「微塵世界にみちみちたまえり」

今月のプチ法話会で講師の安楽寺さんの法話聴聞した。
 
その中で、
この如来、微塵世界にみちみちたまえり、即ち一切群生海の心なり
という唯心鈔文意の言葉を教えていただいた。
 
私たちの如来はどこにいるのか?
如来は、私たちには見ることはできないが、確かに存在しておられるということを
親鸞さんは「満ち満ちたまえり」と表現された。
 
しかも、如来は、微塵世界に満ち満ちておられるという。
微塵とは塵のように細かいということなので、
この世界のどのような小さなモノにも御仏は満ち満ちている。
「満ち満ちている」をどう訳したらいいのだろうか。
単に居るということだけでは無い。
 
この考え方(表現)はとても素敵だ。
まず、「微塵世界」。
宇宙に満ち満ちているのではなく、微塵世界に満ち満ちているのだ。
数学的に言えば、無限大ではなく、無限小の世界だ。
 
私たちの身近な世界は大宇宙よりも無限小の世界だ。
私の髪の毛、米粒、庭の草花の小さな芽、小さな虫、私たちの何気ない小さな行為・・・
そういったものから私たちの世界は成り立っている。
その小さな小さな世界、
それはどんなに小さなものであっても、大きな大きな世界を同じように持っている。
そこに満ちている仏・・・
たいていの人はそれを「いのち」と思うのではないだろうか。
 
さて、ここで問題が出てくる。
このお言葉の後半部分だ。
即ち一切群生海の心なり」の群生は群れ生まれ出ている私たちのこと。
私たちのような塵にも似た存在が集まったものを海のようにと譬えたもの。
いずれにしても私たちである。
すると、この言葉は、「如来は私たちの心である」という意味になる。
 
これは、簡単には納得できない。
調べると、この言葉は、
この如来、微塵世界にみちみちたまえり、即ち一切群生海の心にみちみち給えるなり。
だとある。(正嘉本)
こちらは、すっきりと入ってくる。
仏が私たちの心に満ち満ちてくる。
そういう満ちわたるはたらきが仏なのだ。