複雑怪奇な微塵世界

この微塵世界は複雑怪奇だ。
私の仏国土に仏の慈悲は満ち満ちているのだけれど、同時に様々なものが介入してくる。
この介入してくるものは、知らず知らずに私を支配し、いつの間にやら私を服従させている。
 
教育を産業や市場ととらえ、その中に「競争原理」を導入して活性化させようという志向。
それは、学校を企業ととらえ、商品を売り、商品を消費する「市場原理」を前提として、
「競争原理」の中に無理やり追い込むことが、活性化につながると介入してくる。
でも、その中で苦しんでいる子どもたちや教員がいる。
 
宗教を産業や市場ととらえ、その中に「競争原理」を導入して活性化させようとする志向。
それは、寺を企業と同じように考え、寺が生み出す商品を消費する市場とらえようとする。
寺が生み出す商品とは信心なのだろうか。
癒しは商品なのだろうか。
寺が企業になったら、宗教ではなくなるのではないか。
 
組織を企業と同じように考え、市場の中で「競争原理」を導入して活性化させようとする志向。
国をも企業と同じように考え、商品を生産し、商品を売り、「競争原理」の中で活性化させようとする。
さらに、個人をも企業と同じように考えることに到る。
私は自分自身の企業家となって自分に投資し、自分自身を商品とし、自分自身を生産消費し、
進んで「市場原理」と「競争原理」を自分自身のものとするようになる。
そして、得るものは商品としての自分の価値である。
 
商品としての私だけが私の価値なのだろうか。
逆に消費している私は、それで満足しているんだろうか。
そもそも、できるだけ安くて良いものを買おうと悩んでいる私は、本当に市場の中だけに生きているのだろうか。
 
ところで、企業にはトップがいる。
企業のトップの形態はいろいろある。
最近はやっているのが上意下達の独裁的なトップである。
そのトップの指示が正しいのか間違っているのかという評価は誰がするのか。
「市場原理」には市場が評価をするというはたらきがあるが、企業の場合は利益=評価である。
教育や宗教や国はこういった評価を導入することがそもそも無理ではないか。