善悪はわからない。しかし、正非はわかる。

歎異抄親鸞さんの次の言葉がある。
 
 「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御
  こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにて
  もあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをし
  りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、
  みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまこと
  にておはします」
 
私はコトの善悪を区別することができないということだ。
今、社会で出されている言説の善悪を知ることができるのは仏だけだということだ。
煩悩具足の凡夫、凡愚の私にはとうてい善悪はわからないという、当たり前のことだ。
 
そうすると、
今世の中で起きているコトはどれが正しいことかわからないから、仏にお任せと言うことになってしまう。
ただ、この場合は仏ではなく、権力にということになる。
親鸞さんはそれが念仏の道だと言われたのだろうか。
断じて否である。
 
そもそも縁起として成り立っている私たちが、社会と無縁でいるはずがない。
社会から影響を受け、また、社会にほんのわずかだが影響を与えている。
だから、そういう娑婆を濁世ととらえ、その汚れを自分の汚れとして、深く見つめていく道が
念仏の道なのだ。
 
というわけで、念仏の道は社会から隔たる道ではない。
逆に社会に迎合する道でもない。
悲僧非俗の道というのは、出世間の道ではない。
あくまで、世間の中にあって、その世間を相対化する道である。
 
最初の親鸞さんの言葉に戻ると、
私には、何が善で何が悪かはわからない。
しかし、その道が間違った道かどうかはわかる。
まちがいを犯してきた私たちだから、善だとはわからないけど、
悪だとは分からないけど、非であり、仮であることはわかる。
そのコトは、その道は、間違っているということはわかるのだ。
 
念仏の道は正道である。
正道とは、まちがいのない道である。
「念仏のみぞまこ」とと言われたのは、
念仏によって私たちが間違った道を歩まないようにして欲しいという願いなのだ。
 
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