善悪と真偽仮

700億円もの税金を使って、ただ権力を強化するという選挙は仮である。
ただ、私はこの選挙のおかげで、長年悩んできた「善悪」と「真偽仮」の違いがはっきりした。
つまり、仮である選挙にも良いところがあったということだ。
「善悪は判断できない」ということはこういうことだと思う。
 
歎異抄には、善悪のことは判定できないと強調してある。
昨日の善悪の言葉や、千人の人を殺せるかどうかという問いなど頻繁に出てくる。
だから、私たちには善悪を判定できないと思い、判断ができないから仏にお任せとなる。
長年そう思ってきた。
ところが、親鸞さんは主著教行信証では、真と偽と仮をはっきりと区別して述べられている。
ようやくそのことに思い至った。
 
つまり、善悪は判定できないけど、真偽仮は判定できるということだ。
この違いは大事なことで、私たちは判定できない善悪を議論しているのではないだろうか。
大事なことは、真(まこと)偽(にせもの)仮(うそ)は判定できるということだ。
つまり、私たちにできることは、真偽仮を見抜くことなのだ。
 
前に書いたが、真はわからなくても、偽と仮はわかる。
念仏を称え、それが仮であることを自覚し、日々行う偽である行為を自覚している人は、
真に最も近い人であり、それは他の真偽仮を見抜くこともできることを示している。
善悪はわからないが偽と仮は見抜くことができるスタンスが念仏の生活なのだ。
 
そして、善悪についてはただ一つ「念仏のみまこと」と言い切っている。
なるほどそうだ。
私たちにはそういうしかない。
そして、その道は偽(にせもの)の道だ、だから賛成できないということはできる。
その道は仮(うそ)の道だ、だから行くべきではないということはできる。
うそは見抜くことができるのだ。
 
差別や二枚舌やハラスメントは偽であり仮である。
善悪ではない。
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