恩徳讃の「べし」

 先月、飛騨の高山別院へ伺った折に、御講師が恩徳讃の「奉ずべし」の「べし」は「~しなければならない」という必要・義務でなく、推定・予想ではないかと語られた。
 
古語辞典を見ると、「べし」の
1番目に、それが当然であると推定、または予想される意。「きっと~にちがいない。きっと~だろう。」と書いてあり、
2番目に「~するはずだ。ぜひとも~しなければならない。」という必要・義務があると推定する意と書いてあった。
3番目は適当「~するのが良い。」
4番目は勧誘・命令「~するのが良いよ。~しなさい。」
5番目が決意「ぜひとも~しよう。きっと~しよう。」
 
これだけ違うと、どれだろうか迷う。
この順番は、当時一番使われていた意味と言うのではないらしい。
 
恩徳讃は御開山の和讃であって、正像末和讃の最後の方にある。
 
(57)
三朝浄土の大師等
 哀愍摂受したまひて
 真実信心すすめしめ
 定聚のくらゐにいれしめ
「しめ」尊敬を含んだ命令「~していただきたい。」
 
(58)
他力の信心うるひとを
 うやまひおほきによろこべば
 すなはちわが親友ぞと
 教主世尊はほめたまふ
 
(59)
如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし
 
   以上正像末法和讃
 
「べし」が使われている所を調べてみる
 
弥陀の本願信ずべし
 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて
 無上覚をばさとるなり
 
末法第五の五百年
 この世の一切有情の
 如来の悲願を信ぜずは
 出離その期はなかるべし・・・(1)
 
五十六億七千万
 弥勒菩薩はとしをへん
 まことの信心うるひとは
 このたびさとりをひらくべし・・・(1)
 
念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし・・・(1)
 
造悪このむわが弟子の
 邪見放逸さかりにて
 末世にわが法破すべし・・・(1)
 
十方無量の諸仏の
 証誠護念のみことにて
 自力の大菩提心
 かなはぬほどはしりぬべし・・・(1)
 
弥陀大悲の誓願
 ふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく
 南無阿弥陀仏をとなふべし
 
信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし
 
仏智うたがふつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし
 
他力の信をえんひとは
 仏恩報ぜんためにとて
 如来二種の回向を
 十方にひとしくひろむべし
 
上宮皇子方便し
 和国の有情をあはれみて
 如来の悲願を弘宣せり
 慶喜奉讃せしむべし・・・(1)
 
多生曠劫この世まで
 あはれみかぶれるこの身なり
 一心帰命たえずして
 奉讃ひまなくこのむべし
 
「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。
この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし・・・(1)
 
 ・・・(1)と書いたところは、主語から、それが当然であると推定、または予想される意。「きっと~にちがいない。きっと~だろう。」であると考えるのが自然であろう。私たちは現代語から「べし」=Mustととらえてしまうが、これらの例は、きっとそうなるという自然な流れを想定している。他力思想からすると当然である。
 問題はそれ以外である。「当然推定」とも取れるし、「勧誘命令」とも取れる。しかし、「~しなければならない」(命令)というのは、私たちの生活の中の命令系統が示している自力の思想である。
 古語辞典をみると、現代のような強い意味の命令はない。義務であり、勧誘であり、決意である。したがって、いずれにしても現代語のもつ「べし」の強い意味は無いと言い切ってもよいのではないだろうか。
  
法然上人の「百四十五箇条問答」には
 
 酒飲むは罪にて候か。
 答う。まことには飲むべくもなけれども、この世の習い。
 
 本当は飲むべきではありませんが、世間の習慣です。
 
と現代語訳されるが、この「べく」については、先ほどの辞書によると以下のように考えられる。
 
(1)きっと飲んでしまうだろうと思うことはいけないけれども、
(2)決して飲まないはずだが、
(3)飲んでしまわない方がいいけれど、
(4)決して飲んではいけないけれど、
(5)ぜひとも飲まないようにしようと思うけれど、
 
とかなりニュアンスが異なってくる。
私たちは「べき」を「してはいけない」ととらえるが、もっと内面的なニュアンスがあるように感じる。
 
「この橋渡るべからず」
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高鷲は初雪だった。