浄土真宗の人は愚者になりて往生す

3日間の僧侶研修で何を学んだのだろうか。
知識も増えた。新しいことも知った。
なるほどとも思った。涙を流した。
どこに何が書いてあるのかもわかった。
しかし、
 
法然上人は「浄土真宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、
たしかにうけたまわり候ひしうえに、
ものもおぼえぬあさましき人々が参って来たのを見て、
「往生はまちがいない」といって、にこっとされたのを確かに見た。
学者ぶった論議をしていかにも賢明なようにふるまう人が参ってきたのをば、
「往生はどうであろう」と言われるのをこの耳で確かに聞いた。
今に至るまではっきりと思い出すことができる。
人々にだまされずに御信心をゆるがせられずしてそれぞれ御往生をなされるべきである。
ただし、人にだまされてしまわれなくとも、信心の定まらぬ人は正定聚に住むことはできなくて
さまよっている人である。
 
親鸞聖人88歳のお手紙である。
 
私は確信が欲しいと思う。
だからわかりやすい話を安心して聞くことができる。
自分で枠をつくり、その枠外のことは全く理解しようとしない。
 
「愚者になりて」ではなく、「愚者であることが思い知らされる」
知らぬ事ばかりであり、どれが大事なことなのかもわからない。
わからないから次から次へと疑問が浮かんでくる。
 
馬鹿にも二種類あるようだ。
一つは、枠を作り、その枠から外れることを認知しない馬鹿。
それをバカの壁と名づけたのは養老孟司である。
私は今までの自分で作った枠を通して今話を聞いている。
それは人間の脳の仕組みだからどうしようもない。
だから、その枠にとらわれていないか時々点検をするのが仏法である。
もう一つは馬鹿だということを自覚している人である。 
それは積極的な愚者である。
 
安楽庵策伝の醒酔笑に次の小話がある。
 
 星取り棹
小僧あり。小夜ふけて長棹をもち、庭をあなたこなたと振りまわる。坊主これを見付け、「それは何事をするぞ」と問ふ。「空の星がほしさに、うち落とさんとすれども落ちぬ」と。「さてさて鈍なるやつや。それほど作(工夫)がなうてなる物か。そこからは棹がとどくまい。屋根へあがれ」といはれた。お弟子はとも候へ、師匠の指南ありがたし(有難し)。
星ひとつ見つけたる夜のうれしさは 月にもまさる五月雨の空
 
このように気持ちよく馬鹿も笑い飛ばそう。