愚の大地

山本伸裕さんの文章から心に残った文章を書き留めておく。
 
人が「空」の思想を受け入れるとき、あるいは「愚」の大地に降り立つとき、
生の現実に対して後ろ向きになるのでなければ、
「自分の感覚の与える意味を敏感に読み解くこと」以外に、
この世界を生きていく術は見出せないのではなかろうか。
そうした生は、外部の自分ならざるものに根拠を置くのものではない。
そうすることで、人間ははじめて、むしろ責任ある生き方を貫徹させることができる。

  

これは、龍樹や親鸞だけの生き方を言っているのではない。
これまでも何人もの人がそのような生き方や学び方をしてきた。
その生き方は柔軟であり、より多くのことを学べる。
だから、振り返った時に間違っていたら自分を柔軟に変えることもできる。
それを外部から強制させられたら、上の生き方とは異なるものになる。
 
「学びてときにこれを習う。また楽しからずや。」
「サッティヤーグラハ」・・非暴力主義は大いなる学習であった。
「大乗の菩薩道」
これらは全て学びである。
自己判断の不確実性をもとに、「生きていくこと」と「学び」が一体になっている。