人間(じんかん)に光りあれ

 

「人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」と結ばれる水平社宣言の中に、(いたわ)という漢字がある。
これ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、
人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
 
西光氏はなぜこの字「勦る」を選ばれたのか。
「労る」ではなく「勦る」と。
辞書によると、労るは思いやる、大事にする、やさしくすると書いてある。
勦るは、「うばいとる」「ころす」という意味も含む「いたわる」である。
 
私たちの「いたわり」の意識ですることがしばしば「いたわられる」人の存在を殺すことがあるということを示している。
例えば、一カ所に集め(保護し)押し込め、一つの意識の中に追い込むということがある。
 
西光氏はこの両方の意味を含めるために、「労る」ではなく「勦る」を使われたのだ。
私たちは「いたわる」と安易に言うけれど、そこには私たちの人間としての弱さがあることを見失ってはいけないということだろう。
「いたわり」は、私が「独立した存在」であり、そして他者と「平等に出会える」ものでなければならないということを示している。
 
さて、この水平社宣言の中に「人間」という言葉が何度も出てくる。
この言葉について、永六輔さんが西光さんから直接聞いたという話がある。
 
『水平社宣言については 「みんな“人間(にんげん)”と読むけど、あれは“じんかん”と読むんですよ」と言われたことも印象に残っています。人に個別に光があたるんじゃなくて、人と人の間の万物すべてに光があたることで、人と人が平等になるという意味だ、と繰り返しおっしゃった。なるほどな、と思いましたね。万物すべてへの“やさしさ”を持ってらした方だという印象は、後に住井すゑさんから聞いた「男として一番好きな人は西光万吉」という言葉とも重なりました。』
 
一人の人間に光が当たるのではない。人と人との間に光が当たるのだ。
それが、平等になるという意味だという言葉は重いと思う。
「人間(じんかん)に光りあれ」