行と公案

 真宗はありますか」と聞かれた金子大栄師は、

「行のない仏教はないでしょう。日常生活が行です。
洗濯するのも。ご飯を炊くのも、商売するのも、仕事をするのも、念仏において行になるのです」
「禅の公案のようなものはありますか」
「はい、あります。日常生活全てが公案です。
子どもが怪我をした。さあどうするか。夫が外へ女をこしらえた。さあどうするか。これは待ったも、やり直しも効かぬ厳粛な公案です」
真宗菩薩行はどういうのもですか」
「自分と相手、私とあなたが、同時に育ち成長する行のことです」
と答えられたそうです。
 
そういう意味では、毎日起きる問題に意味を見い出し、必死で生きてゆくことは、
仏教でもあるし、私たちの日常生活そのものだともいえます。
その行が、自身の仏国土を清浄にするということもイメージできます。
そうやって、自利利他の行を修め、自分を磨くと同時に周りをも成長させます。
 
何よりも、問題は向こうからやってきます。
つまり、私たちが問題を作っているのではなく、
生活が私たちに問うているのです。
さあ、あなたはどう解くのですか?
と。