最も批判されなければならないこと

一日がかりで薪を割った。
ほとんどが杉だから、これだけあっても一か月分あるかないか。
でも、こうやって冬の準備をしていると、これからの夏が面白くなる。
冬はこうやってやってくるのだ。
 
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さて、本山から、僧侶の起こした不祥事についての注意文書が届いていた。
これを読んで、批判をしなくてはと考えてしまった。
この注意文書についての批判である。
 
主旨は、
「ここの所の事件が宗門の信頼を失墜させている。
これらの事件を重く受け止め、僧侶としての人格涵養、師弟の教育の一層の検証・検討をして、
同じ過ちを決して繰り返さないように努めてほしい」
というもの。
 
これは、子どもたちの事件が起きた時、
道徳の指導のより一層の指導の徹底を共調するという文科省の論理と同じだ。
私が浄土真宗に惹かれるのは、
間違いをおかすことを前提として生き抜いていく勇気をもらえる
という点にあった。
それは、決して間違いをするなという「道徳」とは明確に異なっている。
 
生きている限り、私たちは間違いや過ちを犯す。
だから過ちを犯しても良いというのではない。
過ちを犯す自分であるということを十分自覚することなのだ。
そういう自分であるからこそ、弱さを持っている自分であるからこそ、そうならない縁起を大切にするのだ。
 
だから、注意文書は真宗の主旨から外れている。
それは、きちんと批判されなければならないと考える。
でも、宗門としてこういう文書を出す意図も理解できる。
が、だとしたら、そこに浄土の教えを踏まえた文章にできないものか。
 
しかし、もっと批判されなければならないことがある。
それは、政治家の問題だ。
ここの所の「戦争法案」をめぐる国会の内外での政治家の発言はもっと情けない。
同じ国の人々に対する想像力が欠けている。
自分の感情や思いだけで発言し、採決をしようとしている。
それは、暴力である。
最も批判されなければならないことだ。
 
さっき内田樹さんの意見を読んで、「言論の自由」についてその通りだと思ったので紹介しておく。