全てが神の御業なら、今現実に起きている出来事には意味があるはず。
そうすると、神に問わざるを得なくなる。
「なぜこのようなことを私たちに与えるのですか」
でも、神は応えない。
その場合に三つの対応がある。
一つは、応えない神から離れることである。
二つ目は、神の業としてあきらめることである。
三つ目は、自らの行いに原因があると、罪は私にあると考えることである。
この現実の現象は多様である。
むしろ、多様な現象を説明するには、
ギリシャ神話のように様々な神が様々な思惑で動いている方が都合がよい。
しかし、旧約聖書では一つの神を選んでしまった。
それを選んだのはユダヤ民族であるが、
したがって、一つ目の対応を選んだ人たちは、主人公として聖書の物語からは消える。
二つ目も、あきらめたらそもそも聖書の物語が語られなくなるので、物語として聖書から消える。
書かれるということにおいては、残りは三つ目しかなくなる。
では、自らの行いに原因があるとしたら、自らの行いを正しくすれば神は応えるのか。
これは、当然のことながら、人間が神を動かすことになるのだから否である。
そうなると、神の意味はどうなるのか。
まず、自分たちの利益を実現するだけの神から世界の神へと変わってくる。
世界を創造した神だから、民族の神から全ての民に対する神となるのは当然である。
そうすると、「ユダヤ民族の神」としての意味がだんだん薄れてくる。
そこで、律法主義と終末思想が生まれてくる。
キリストはその神を、愛の神としてとらえなおした。
弟子たちはイエスの死後もそのことを問い続ける
弟子たちからも捨てられ、十字架上で犬のように惨めな死をとげたイエス。
だが今、すべての価値が転換した。無力なる人は最も力ある方に変わり、
捨てられ追われた人は最も迎えられる方に転じたのだ。
イエスの山上の説教の言葉を借りるならば、心貧しきものこそ祝福され、泣く人こそ
神から慰められるのだというキリスト教の持つ根本的な価値の転換が、
イエスの十字架上での死に際しての問いと願いは、「応えない神」の大いなる答だったのだ。
そして、イエスの死後もこの問いが問われ続けたことが、復活や奇跡なのだ。