「聖書の解釈」と「憲法の解釈」

サッカーワールドカップで世間が浮かれている間に、政治の世界ではとんでもないことが行われている。
たぶん、いろいろあることはすべてつながっているのだろうが、あまりに急変である。
 
私が一番悲しいのは、執行している人たちの思いの都合でコトが行われていることである。
変革が必要だとか、世界の変化に対応するためとか、安全を守るためとか、・・・
いろいろ言っているが、全て一方的な説明であり、押しつけである。
 
集団的自衛権があることを「解釈」で進めることは、すでに勝手な解釈を生み出していて、
憲法の根幹と完全に矛盾する。
 
人は弱い。
だからユダヤ教イスラム教では律法や掟で縛る。
何をするのかわからない私たちだから、聖書やコーランが絶対視される。
 
聖書やコーランは絶対なものであり、人間にゆだねられるのはその解釈だけである。
がそれは、人間の弱さを十分に知っているからだ。
そして、その解釈は、あくまで聖書やコーランの精神を踏み出してはいけない。
 
今回の政府の解釈は、憲法の精神を踏み出している。
たとえれば、解釈が聖書やコーランを超えているのである。
つまり、決定が人間の側で行われることを示している。
私は自分も含めて人間を弱いものだと思っている。
正しいことをしているわけでもなく、行ったことが正しいとは決して言えないと思う。
人間が解釈し決定することに正しいといえることはないのだ。
 
だから人間の歴史は悲劇を生み出す。
それはすべて人間の側の驕りから来ている。
この驕りがすでに悲劇を生み出している。