それはなぜだったのだろうかと気になっていた。
ふと、ネットで調べてみる気になった。
というサイトにその違いが書いてあった。
無は亡と訓じられ、亡は逃也と訓じられるから、人や動物が逃げていなくなること。
无は「虚无の道」で空っぽの无。元や天に通じる。
なるほど。
そうだとしたら、いなくなる「無」より元や天に通じる「无」の方がかっこいい。
親鸞さんは一字一字の違いをおろそかにする人ではなかった。
この違いは私の中では親鸞さんの意図として納得できるものだ。
よく、无を天と書く間違いがあるそうだが、それも頷ける。
ただ、「天が西北に傾いているのを无という」という意味がわからない。
地軸が北に傾いて、西に星が沈むことを言っているのだろうか。
もう一つ「灮」も調べてみた。
こちらもかっこいい。
親鸞さんは「説文」を調べていたのだろう。
勝手な推測だが、想像はひろがる。