空と方便力

 
親鸞の方便力(もちろん他力です)について考えてみようと思っていた。
説明と学習と修行が方便で一体になるという曇鸞大師の思想や
縁起として「私」のあり方をそこでうまく説明できるのではないか
と思っていたからだ。
 
検索すると、
山本伸裕さんの『龍樹の「空」思想から親鸞の「方便」へ』という論文を見つけた。
ほぼ納得する(私の理解力で)論文だったので、この人に興味を持った。
とても若い方で、ビデオで講座が紹介されていた。
 
それは、他力の思想は、自力に満ちている現代日本ではなかなか理解されないが、
和語の世界では、当たり前のようにあふれていたという内容だった。
 
「かなし」という和語は「かねがたし」から来ているという。
つまり、人の気持ちや立場を兼ねることができない。
もっと言えば代わることができない。
愛する人の代わりになりたいと思うけれど、
代わることのできない人間の悲しさ。
思いのままにできない人間のあり方が「悲しむ」に転化してきた。
 
「いのち」「いき」「いきる「いやす」「いぶき」「いのり」に共通する「い」は、
生命のエネルギーを指す。
「い」の「道」であったり、「い」の気(流れ)であったりする。
「い」は私の外にあり、「私」を生かしているものの存在を前提にしている思想がある。
 
最も自力的な匂いのする「できる」という言葉は、「出来る」であり「出(い)で来る」である。
つまり、向こうから出てきた。できないのは、向こうからの応答がないということを示している。
数学の問題を解いていると、答えが向こうから出てくるということを感じる。
 
私たちの普段使う言葉の中に「他力」がいっぱいあったのだということは、
「他力」についての新しい見方を示してくれる。
 
空の思想から方便(の思想)への方は、
龍樹が中心で、方便の方が少ししか取り上げられていなかったが、
空=無自性は言語の否定ではなく、縁起としての存在を示している。
「私」と思っているものは無いのだという世界は、豊かな世界だと感じる。
法性法身(空)だからこそ、さまざまな方便法身(現象)としてこの世界を表す。
色即是空だけではなく、空即是色なのである。
実体が無いからこそ、さまざまな現象を生み出しているのである。
 
「頑張らない」生き方の例として、植木等のスーダラ節が紹介されていた。
世界はさまざまな悲しみを生み出し続けている。
全ての人を救いたい。かなわずとも一番身近な人を救いたい。
そう本気で考えると、全世界の悲しみを背負わなければならない。
しかし、私たちに全世界の責任はとれない。
だから、それを「他」に引き受けてもらわなければ生きていけない。
 
この「他」を仏と考えるのが、他力の考え。
スーダラ節は、この悲しみを内に含んでいる歌なのだ。