観無量寿経 その3

 
【問い】
現実が変わったわけではないのに、なぜイダイケは迷いが晴れ、さとりを得ることができたのか。
 
ただ浄土と仏を見ただけなのだ。それなのに迷いが晴れた。
あの苦しみは消えてしまったのだろうか。
ただ心持ちだけの問題なのか。
 
私は観無量寿経を読んだがあまりわからなかった。
イダイケとアジャセの物語は分かったが、浄土を見ることや仏を見ることの意味がよく分からなかった。
それを1400年前に読み開いた人がいる。
名は善導という。
彼の観経を読み開いた「観経疏」はそれ以後の浄土教を一変させた。
 
【答え】
善導大師はイダイケが無性法忍のさとりを得たのは、華座観(けざかん)のところであると言われる。
それは、阿弥陀仏が観音勢至菩薩と共に空中に姿を現して御立ちになり、
そして、イダイケは釈尊亡き後の人々のためにどうしたら、仏を見ることができるのかを問う。
イダイケはもはや自分の苦しみのことだけを考えてはいない。
善導大師の言葉を聴こう。
 
「是の語を説きたもう時」等というのは、まさしくこの文の意について七つあることを明かす。
一つには、阿難と韋提に告げられる時を明かす。
二つには、阿弥陀仏が釈迦仏のお声に応じてただちに現われて、往生できることを証明されることを明かす。
三つには、阿弥陀仏が空中にあって立ちたもうのは、心を向けて信じ、わが国生まれようと願うならば、すみやかに往生できることを明かす。
 
問うていう。仏徳は尊高であるので、たやすく軽々しい振舞はなさらぬはずである。すでによく因位の本願にたがわず、ここに来たって、大悲を現わされるならば、どうして端坐せられて根機に向かいなさらないのか。
 
答えていう。これは、如来には別して奥深い思召しがあることを明かす。思うに娑婆は苦しい世界であって、いろいろの悪人が同居し、八苦に苦しめられ、ともすれば互いに背き、心をいつわり親しんで笑えみを浮べている。いつも六つの賊がつき随って、三悪の火の坑あなにまさに陥ち入ろうとしている。もし阿弥陀仏がみ足をあげて、いそいで迷いを救われなかったならば、この三界の牢獄をどうして免れることができよう。こういうわけで、立ちながら衆生をつまみ撮とって行かれ、端坐して機類におもむくことをなさらないのである。
 
四つには、観音・勢至の二菩薩が侍者となって、そのほかのものがないことをあらわすことを明かす。
五つには、阿弥陀仏と観音・勢至の三尊が身心ともに円満清浄で光明がいよいよ盛んであることを明かす。
六つには、仏身の光明は明らかに十方を照らされ、煩悩の障りをもっている凡夫は、どうしてつぶさに見ることができようかということを明かす。
七つには、仏身が無漏であるから、光もまた同様に無漏である。三界有漏の閻浮檀金色をもってどうして比べることができようかということを明かす。
 
「時に韋提希、見無量」より「作礼し」までは、まさしく韋提は実(まこと)にこれ煩悩のさわりをもっている女人で、いうに足らぬ身、ただ仏力が冥(ひろか)に加わってくださることによって、かの阿弥陀仏が現われたもうた時、仏を見たてまつって礼拝させていただくことができたことを明かす。
これはすなわち序分においては、浄土を眺めて、喜び嘆じて自らたえることができなかった。いま、まさしく阿弥陀仏を見立てまつって、さらにいよいよ心が開けて無生法忍をさとったのである。
 
無生法忍とは真実をありのままにさとること。
イダイケは無生法忍によって、喜忍・悟忍・信忍の三忍を獲ている。
 
浄土を見、仏を見ることによって、自身の立つところが変わったのである。
今までは地につかなかったのが、浄土を見ることによって地についたのである。
自分自身がわかってきたと言ってもよい。
そして、一人ではないとわかったのである。