釈尊が答えていないのに、イダイケの「問い」は変化している。
最初は、自身の悲劇的な現実への「問い」である。愚痴と言っても良い。
ところが、それを振り返り、『わたしのために広く憂悩のないところを説いてください』と、
イダイケが自分の心を述べて、自ら浄土を請う。
「問い」が「願い(欣い)」に変わっている。
『この濁悪の世界は地獄・餓鬼・畜生ばかりで、不善のものが多い。
願はくは、未来に悪の声を聞かず、悪人を見ないようになりたい。』と。
「苦を厭い楽を欣(願)う」ことから「穢を厭い浄を欣(願)う」に変わってきている。
この違いは大きい。個人の問題から人類の問題に変わったと言ってもよい。
さらに、『ただ願わくは如来、わたしに清浄業の処を観ずる行を教えてください』というところからは、
イダイケが自ら往生の行を請う。
この願いに釈尊は「光台にさまざまな仏の国を現わされ」て応えられる。
そして、イダイケは阿弥陀仏の浄土を自ら選ぶ。
これは、この苦悩の世界を捨てて浄土の世界にあこがれていくということではない。
この世をもっとしっかりと生きるために、浄土の世界が開かれているということを示している。
この我われの住む世界がいかなる世界であるかということを知ってこの世界を生きるということ。
それも、ただ漠然と何となく生きるということでなく、
浄土という世界こそ我われの本国として、この世に生きるということ。
我われもこの世に生きるという背景が確立することである。
つまり、釈尊自身の生涯、「自利利他の生き方」そのものが私たちの生き方になると言ってもよい。
実際に、イダイケは釈尊が世を去った後の人々のために、
どうすれば浄土や阿弥陀仏を見たり、浄土往生の方法を知ることができるかを二度まで尋ねている。
そして、その方法が、阿弥陀仏が菩薩の時にたてた願の力によることを知る。
イダイケはすべての迷いが晴れ、無性法忍のさとりを得ることができたのである。
諸仏の世界である。
阿弥陀仏の治める絶対的な世界ではなく、諸仏と菩薩の行に満ちた世界である。
だから大乗なのである。