教行信証の解説を読む

雪かきの合間に、本山(宗徒・門徒)からいただいた教行信証の解説論集を読んでいる。
教行信証はとても不思議な本で、ほとんどが引用文でできている。
引用文(文類)なのに、その読み方や並べ方、構成などから間違いなく、親鸞さんの著書なのである。
 
本文は漢文であり、とても歯が立たない。
かといって、読み下し文もわからない。
一番わからないのが、現代語訳である。
 
なぜわからないのかというと、
引用文の元の意味→親鸞さんの読み→私たちの読み
という構造になっているからである。
 
親鸞さんはテクストをどう読むかという問題を提起し、
しかもその方法までをも提起されている。
漢文のテクストを書き、その読み下し文や左訓によって親鸞さんの読みがわかるという方法をとっておられるのである。
 
この方法は元の漢文の読み下し文、親鸞さんが読まれた読み下し文を
比べながら読むという方法になる。
私たちにとって、どうしてそのような「読み開き」をされたのかを「読み解く」ことから始めなければならなくなる。
というわけで、一番わかりにくいのが、現代語訳というわけになる。
 
解説を読んでいて、気がついたことがいくつかある。
その一つに、文字言語の問題がある。
理論として、親鸞さんは丁寧に解説をされており、、
それにはあくまで文字を使うしかないと思うのだが、
身体的な部分はどう表現されていたのだろうかという疑問である。
 
その部分はどうしても感情や行動として表現されなければならないと思うのだが。
その実践論に近い部分が、化身土文類だと思って読んでいる。