関ヶ原古戦場研修

高鷲文化財保護協会の研修旅行で、関ヶ原古戦場記念館と岐阜市歴史博物館(天下統一ー信長・秀吉・家康と岐阜ー)へ行った。

バスの中で100分で名著「覇王の家」で司馬遼太郎三河気質の見方から、江戸時代のとらえ方の転換、藩はそれぞれの国であること(国家の語源)、そして現代の地方自治に通じる体制を改めてとらえ直す必要があるという話をした。

もっとゆっくりと見たかった。
写真は石田三成の陣から撮ったけど、後からマニュアルになっていて露出が間違っていたことに気づいたが仕方がない。(青空で透き通っていた)
関ヶ原の古戦場は思ったより狭かった。
こんな狭い所で15,6万の兵がひしめき合ったんだ。
これは島左近の陣で、この上に石田三成の陣がある。
このすぐ前が北国街道(脇道)、その向こうが中山道、さらに伊勢街道が通っている交通の要所。

この三成の陣から見ると、戦場が眼下に見渡せる。
左側はブラタモリでやっていた黒田長政竹中重門の陣。

激戦地だった所。ここで島左近が黒田隊の鉄砲射撃を受けた所だと想像。

松尾山は少し遠くにあるので兵の動きがわかるという程ではない。
大谷吉継の兵が600人だということにびっくり。
大体1万石あたり600人の兵を出している。(本当に比例しているのかは疑問)
石田隊の兵は6000人。島左近は1000人。ちなみに家康は32000人
三成は41歳で家康59歳。

後で調べたら、大阪夏の陣では幕府から出兵の命令が出ている。
それによると、一万石につき200人の兵、300人の人夫(扶持を渡すこと)
つまり、幕府は石高と兵数は比例すると考えていたことになる。

レストランで昼食。
西軍カレーはエビフライだったので、東軍カレーを食べたらカツが二枚も入っていた。

関ヶ原の合戦の前哨戦は美濃各地で行われた。
遠藤慶隆は、7月24日に家康の認可を受けて、金森長可と共に八幡城を攻撃する準備に取り掛かっている。
そして八幡城の戦いは9月1日から3日まで。
慶隆はその11日後の14日に家康に結果を報告している。
関ヶ原の戦いは、9月15日の一日で決着がつくが、それまでに様々な準備や戦いが行われていたのだ。