「刻印」について

私は5つの袋と1つのカバンを常備している。
こうしておくと、資料を探してカバンに入れるために探す手間が省けるからだ。
もっともどの袋かわからなくなるので、名札まで付けている。
思いついた提案などの資料(情報)も入れておけば、思い出せる。

でも、
シャワーのように流れてゆく情報に浸っていると、こんなことで良いのかと思うときがある。
流れ去る情報は大した情報ではない。
では大事な情報とは何か?
これをずっと考えてきた。
「情報を物語りにする」とか「体験」とか「メラビアンの法則」とか「思い出(エピソード記憶)=物語」とか
・・・

最近「刻印」という言葉を知った。
この言葉は、「情報を刻み込んだもの」という意味。
流れ去る情報を刻み込んだ時、その情報は持ち帰ることができるという人類学の言葉だという。
持ち帰ることができるので、もちろん認識することができ、それを使って考えることもできる。

一昨日「マルタとマリアの話」を書いた。
これが私になぜ「刻印」されているのかというと、

(1)フェルメール展を見に行って心に残った絵であること(体験がある)
(2)聖書の言葉と母やつれあいの体験が重なり、単なる情報ではないと感じたこと(意味がある)
(3)そして私自身のこれに関わる様々な体験があること(思い出し体験)

正に「刻印されている」
特に、(2)は大きな意味を持っている。
母は賄いをしていたからほとんど法話を聞けなかった。
エスはマルタを否定はしていないけど、マリアの選択を奪ってはならないと言っている。
母は来られた人たちに少しで振舞いたいと一途に思ってきた。
そして、道元さんは典座も立派な禅であると言われた。

簡単には結論が出せない。
だからこそ「刻印」なのだと思う。