淡墨桜と風姿花伝

桜は大和を過ぎ白鳥を上っている。
 
少し古いが淡墨桜を紹介する。
義母を連れて初めて根尾に行った。
昔、断層を見に来たことがあるが、桜は初めてだ。
その写真。
イメージ 1
樹齢1500歳。
言い伝えに継体天皇のことが書いてあった。
とにかく古い。
 
何度も枯れ死の危機に会いながらここまで来た。
花よりもこの支えの方に目がいってしまうのも無理はない。
大雪、台風、地面の圧迫・・・
それをかいくぐってきたが、
最近のは人間の手による助けだ。
 
この姿は、人間の老後とも重なる。
花を咲かせるだけのために生きているわけではないが、
花が咲かなくなったら枯れる。
必ず枯れるのだが、桜は最後まで花を咲かせる。
それはこの支えのような様々な助けがあるからだろう。
 
世阿弥が「秘すれば花なり」と語っている。
 
『秘する花を知ること。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、という。
この違いを知ることが、花を知る重要点である。
 
そもそも一切、諸道、諸芸において、その家々で秘事とされるものは、
秘することによって大きな効用があるゆえである。
つまり秘事は露見すれば、秘密にしておく程のものではないのだ。
 
これをそれほどのものではないという 者もいるが、
それは未だ秘事の大きな効果を悟らぬゆえである。
まずこの花の口伝、「ただ珍しさが花なのだ」ということをすべての人が知ってしまえば、
さあ、珍しいものが見られるはずだと思い期待する観客の前では、
いくら珍しい芸を披露してみたところで見ている人の心に珍しいという感覚が生まれるはずもない。
見ている人にとってそれが花だということがわからないからこそ、シテの花ともなるものなのだ。
 
されば見る人が思いのほか面白く演じる上手だ、とのみ感じ、
これが花だとわかっていないことがシテにとって花となる。
つまりは人の心に思いも寄らない感動を呼び起こす手立て。
これこそが花なのである。』