貪瞋痴の三毒(三塗)

 『「痴呆老人」は何を見ているか』大井玄 著 より
 
鎌倉時代や江戸時代ではなく、現代ではどうでしょうか。
現代では、歳をとることの中に「痴呆」になるのではないかという恐れがあるのです。
 
では、「痴呆」になることの恐怖は、どこから起こるのでしょうか?
それは、「我を我だ」と思っているところから起こります。
「我」が無くなることが恐ろしいからです。
 
「我は我だ」とは我に執着することであり、
「我に執着する」とは、自我の「貪瞋痴の三毒(三塗)」に縛られていることをいいます。
 
貪(とん)とはむさぼりで、どこまでも所有をもって我を満たしていこうとすること、
瞋(じん)は我の所有を奪おうとする他者への怒り、
痴(ち)はその状態に気づかないこと、
つまり無明です。
 
無常・無我の思想は、この貪瞋痴の黒暗(無明)を開きます。
私(我)というものが、様々なつながりの中で立ち現われてくるということがわかれば、私というものが実態があるものではないということも自覚できます。
また、記憶が無くなれば、我と思っていたものが、無くなることもわかります。
 
つまり、「我」はもともと存在しないのです。
存在しないものが、つながりの中で現れくるように見え、やがてそのつながりもだんだん消えていくように感ずるのですから、恐れるものは無かったということになります。
 
「痴呆」老人になることは、ちょうど子どもが遊びの中で様々なつながりをつくりだし、そのつながりが自我をつくりだしている過程の逆をたどっているようなものです。
 
とすると、大事なことはそのつながりの中で生きているということの自覚(本人に限らず)です。つながりが、「我」をつくりだしているという自覚です。