「日本史の中の親鸞聖人」

僧侶研修会で岐阜別院へ
テーマは「日本史の中の親鸞聖人―最近の歴史学の動向をもとに―
講師は岡村善史先生

昔から伝絵の一段目と二段目のずれが気になっていた。
吉水へ行ってから六角堂に参籠したとなると、他力の教義上矛盾するからである。

岡村先生は、恵信尼文書を根本の資料(第一級資料)とする理由を述べられる。
そこからは、
「堂僧→下山→六角堂→吉水」ということがわかり、それがとても自然な流れであることを述べられる。

特に、下山の意味は単純に山を降りるということではなく、
20年にわたる公務員としての僧侶を辞めて、私度僧になるということの決意があったと。
だから、山から六角堂に通ったのではないと。

そして、さらにいくつかの考察を重ねられる。
それらは省略して、私が最もなるほどと思ったことを記録しておく。

伝絵では、なぜ「吉水→六角堂」になっているのかという考察を述べられる。
御伝鈔によると
建仁元年に法然上人のもとへ
建仁三年四月五日に六角堂の夢告

これがまったくの偽りだとすると、まだ親鸞面授の弟子たちの生きていた時代に簡単には認められないはず。
そして、高田本(もっとも古い)には「建仁三年辛酉四月五日」と記してある。
これは、教行信証に「建仁辛酉の年に雑行を棄てて本願に帰す」ということと混同したのではないか。
さらに、建仁元年は2月13日からでそれまでは正治三年であったことから、
六角堂に籠った時が元旦だとすると、その途中で改元されたことになり、
本来の「建仁辛酉」+「正治三年」→「建仁三年」→「建仁三年癸亥」と変わっていったのではないか。

この説には納得。
なぜ間違えたのかというところまで考察を進めるところが素晴らしい。

ただ、夢告が女犯偈だとすると、それと吉水へ行くことが直接は結び付かなくなる。
この辺については、覚如上人の長子である存覚上人の「親鸞聖人正明伝」が私には納得できる。