大悲と大慈と大智

昨日、ビハーラでディケアの施設で法話をした。
「葉っぱのフレディ」を朗読した。
その後、葉っぱと木の関係を対比させながら人間と法性法身の関係を話した。
 
フレディを取り上げたのは、先日、駒沢勝師の法話を聞いたからだ。
師は小児科医として何人もの子どもの死と出会ってきた。
この子の死を無駄にしてはいけない、今度はこうしよう。
始めはそう考えて、未来の医療に希望を見出そうとしていた。
でも、亡くなったけれど最悪ではないと思える道が無ければならないと考えるようになった。
5歳で死ぬけど、一生病気が治らないけど最悪ではない。
いとおしいと思えば思うほどそう思えてくる。
そう思った時に、医学の力の限界を知り、宗教の力を知ることになる。
 
そして、ある時を境にわかるようになった。それ以来34年間揺らがない。
その時つかんだことを表現するのに葉っぱのフレディを使っている。
木と葉っぱの関係を、阿弥陀と私の関係に対比させる。
フレディは一つの我をもった生命体として描かれる。
でも、木全体が一つの生命体で、葉はカエデの木のはたらきである。
葉っぱ一枚一枚に我があるととらえることの間違いは、
そのまま私たちの間違いに通じる。
 
でも疑問が出てきて質問をした。
「このことを、例えば5歳で亡くなる子や家族にどう説明するのか」
 
駒沢さんの答えは、
悲しいと感じ、何とか生きながらせようと迷う。
阿弥陀になれない私であるが、それでも支えられている。
私は逆信でも支えられている普通の医者であることがわかる。
でも、痛みは癒えるわけではないが、心安まるものを得ることができる。
 
そういわれた。
延命処置にしても、情としてそうしてしまうのが私である。
そういわれた。
情は簡単ではない。
この答えはとても納得できた。
 
叔父が亡くなったという知らせが夕べあった。
寝床に横になると、、夢うつつでいろいろなことが膨大に出てきて、涙が出てきて目が覚めてしまった。
起き上がって、夢か現実の考えなのかを思い出そうとしたがわからなかった。
ただ、涙が流れてしかたがなかった。
 
さとりの世界は、全てが明らかになった無差別智の世界である。
それをこの差別智を離れることのできないものがわかるのだろうか。
ずっとそう考えていた。
わかったとしてもそれは思い込みではないか。
そういう疑問が離れなかった。
無差別智の世界だけれど、信を獲得することができるのは差別智でもできる。
それが佛の大悲なのだ。
念仏は無差別智と差別智を結ぶ唯一の懸け橋である。
弥陀仏は我々とさとりの世界をつなぐ懸け橋である。