往生と不退

 
厭へばすなはち娑婆永く隔たり、欣へばすなはち浄土つねに居す。
                                                                          善導大師「般舟讃
 
 信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり。これ弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。
                                                                    親鸞聖人御消息』
 
信心の人は、その身は娑婆世界・穢土にありながらも、「浄土」を根拠・畢竟依として人生を歩んでいる人だ。
 
 
精神的に不安定になっている。
何日も外出せずに、家の中で閉じこもっていた。
これではいけないから身体を動かそうと雪の除雪をした。
心身というのは面白い。
別々ではないのに、別々のように感じてしまう。
この世界の中で、不安を感じながら生きていくことは大変なことである。
その不安はなかなか消えない。
身体と心は同じものなのだ。
身体を動かしているときは、心の不安はどこかへ消える。
しかし、動きを止めるとまた出てくる。
 
到底、浄土に居すことのできない自分をまた見つめるしかない。
その自分を持て余しながら見つめるしかない。
間違っている、どこかおかしいという声を聴きながら。