語りつくせない苦難の青春の8年と7か月の体験であった。
(家が貧しく、次男坊だったので、だまされて渡ったといわれた。
また、開拓ではなく、すでに農地や家があった。)
現地の人たちの土地を奪ったことはその時は、自覚がなかった。
開拓でも苦労をしたが、4年後の昭和20年の5月に現地召集。
ソ連は8月に侵攻。対戦していたが、8月20日に砲撃が無くなり、
シベリアの錫鉱山の開発に関わったが、ようやく22年に帰国命令がでて、ナホトカへ。
しかし、そこで留め置かれ、さらに2年半の強制労働。
合せて4年3か月の抑留生活だった。
いろいろな体験を語られたが、強制労働は実に辛かったと言われた。
その中で、何人もの人が死んでいった。
たいていは老兵と下級兵士だった。
ソ連は軍隊の指揮系統をそのまま使って管理していた。
しかも旧軍のいじめや体罰を含む軍隊の階級そのまま。
士官は労働はしない。
命令に従わないということで、上官(日本人)に体罰で殺された人もいたということ。
日本には軍隊が無くなったはずで、士官がなぜ威張っているのかと
階級章を千切って捨てたのが1年後。
それからは、兵隊の階級による差別は減ったが・・・
上級者の言うことを効かなくと語られた。
何と1年もかかっている。
「上官の命令は陛下の命令である」という桎梏は、1年も生きていたのだ。
管理には軍隊の指揮系統は便利なのだ。
そして、それは最も非人間的である。
この講座に至る経緯も語られた。
一つは、「自分たちの体験は何だったのだろう。」
帰国後、その歴史的な意味を常に探っていかれたことも感銘を受けた。
また、文書にされたのは、
ご自身の手記を中学生のお孫さんが卒業記念作品として、ワープロで活字化したのがきっかけ。
そのお孫さんのあとがきも心に残るものだった。
このような、苦しみを二度と体験するようなことがあってはいけないと。
そのために、しっかりと記録する必要があると。
今、世界を見ると、この苦しみは無くなっていない。