シベリア抑留

昨日、「郡上一揆の会」で満州開拓とシベリア抑留の苦難の青春をおくられた方の話を聞いた。
 
語りつくせない苦難の青春の8年と7か月の体験であった。
 
「満蒙義勇開拓青年団」で、数えの16歳で満州にわたり、
(家が貧しく、次男坊だったので、だまされて渡ったといわれた。
また、開拓ではなく、すでに農地や家があった。)
現地の人たちの土地を奪ったことはその時は、自覚がなかった。
開拓でも苦労をしたが、4年後の昭和20年の5月に現地召集。
 
ソ連は8月に侵攻。対戦していたが、8月20日に砲撃が無くなり、
部隊長命令で除隊命令。除隊しなかったら、武装解除され、ソ連軍の支配下に入り、シベリアに送られる。
ヤルタ会談ポツダム宣言終戦当の情報は来ていない。
ソ連に和平を頼む条件として、満州軍を強制労働させるという密約?)
 
シベリアの錫鉱山の開発に関わったが、ようやく22年に帰国命令がでて、ナホトカへ。
しかし、そこで留め置かれ、さらに2年半の強制労働。
合せて4年3か月の抑留生活だった。
 
いろいろな体験を語られたが、強制労働は実に辛かったと言われた。
その中で、何人もの人が死んでいった。
たいていは老兵と下級兵士だった。
ソ連は軍隊の指揮系統をそのまま使って管理していた。
しかも旧軍のいじめや体罰を含む軍隊の階級そのまま。
士官は労働はしない。
命令に従わないということで、上官(日本人)に体罰で殺された人もいたということ。
 
日本には軍隊が無くなったはずで、士官がなぜ威張っているのかと
階級章を千切って捨てたのが1年後。
それからは、兵隊の階級による差別は減ったが・・・
上級者の言うことを効かなくと語られた。
 
何と1年もかかっている。
「上官の命令は陛下の命令である」という桎梏は、1年も生きていたのだ。
管理には軍隊の指揮系統は便利なのだ。
そして、それは最も非人間的である。
 
この講座に至る経緯も語られた。
一つは、「自分たちの体験は何だったのだろう。」
帰国後、その歴史的な意味を常に探っていかれたことも感銘を受けた。
また、文書にされたのは、
ご自身の手記を中学生のお孫さんが卒業記念作品として、ワープロで活字化したのがきっかけ。
そのお孫さんのあとがきも心に残るものだった。
 
このような、苦しみを二度と体験するようなことがあってはいけないと。
そのために、しっかりと記録する必要があると。
 
今、世界を見ると、この苦しみは無くなっていない。