人生に与えられる苦難は仏からの課題である

M.ポラニーの「人間について」を読んでいた。
 
「ポラニーの解明の仕方は、規範や徳目を設定して論ずるのではなく、
あくまでも知識を求め獲得することはどういいうことかと省察していく方法をとり、
同時に宇宙論的な視野で理解と真理に服する中枢としての人間の使命を自覚して
義務に服し責任を果たすことを説き起こしている。」
 
ここまで読んでいたら、来客があった。
 
「様々な人と仏法について話し合っているが、
柔らかな心を持つことができずに、正しいか間違っているか、するかしないか、0点か100点か、
と言った心でしか世間を見れない人がいる。
自分が凡夫であることをなかなか認めることができないのです。」
と言われた。
 
高度経済成長までの日本は、この考えで進み、頑張ってきたと言ってもよい。
いろいろな対立も、それぞれの正義として主張してきた。
それは、最初に規範や徳目を設定して論じていることになる。
そうではなく、今の生活や自分の体験してきた経験の意味を深く問うていくこと
それが、ポラニーの方法だったのだと改めて感じた。
 
「~はこうあるべきだ。」
ではなく、自分自身が「どのような世界に生きたいか」ということを
われわれ一人ひとりが誰でも自分の言葉で語れ考えることができることが大事な問題なのだと。
 
話していたら、卒業した子から電話がかかってきて駅に着いたという。
迎えに行って、食事をしながらいろいろな話をした。
悩みも相談してくれた。
その問題をどう乗り越えたらいいのか3人でいろいろ考えた。
それぞれの子にそれぞれの生活と考え方があるということを前提しにしながら。