「AI読み」から縁起に対する感性へ

毎日いろいろな情報が押し寄せてくる。

でも、量が多くてとても読み切れない。
だから、つい「AI読み」になる。
そうすると、それが癖になりどのような文でもAI読みをしてしまう。

政治も同じ、行政や企業の行っていることも同じ。
それらは複雑すぎて理解するのが「めんどくさい、しんどい、わからない」となる。
とにかく現代は情報が多すぎるのだ。

それを処理するためにAI的な読み方(読み飛ばす、キーワードだけ読む→勝手な読み、方向づけた読み)になってしまう。
したがって、間違いも多くなる。
ただ、私の場合は後から間違いだと気がつく。

これは現代では仕方がないであろう。

森岡正博さんが「AIは哲学できるか」と文を書いていた。
法則やパターンを発見する能力はAIの方が人間よりも優れている。
しかし、AIは当分は「内発的に問いを発すること」はないだろうと。

哲学は自分自身にとって切実な問いを内発的に発するところからスタートする。
「なぜ私は存在しているのか」
「生きる意味はどこになるのか」
そういう問いが自分に迫ってきて、どうしても考えざるを得ないところまで追い込まれてしまう状況こそが哲学の出発だと。

簡単に言えば動機だが、これは論理ではない。
私に言わせれば縁起だ。
その縁起に対する感性を磨くことこそ人間の持てる最大の能力ではないかと思う。
もちろんそれすらも、自分で何とかできるようなものではないと思うけど。