書き留めておく
『人は自分という存在の始点も終点も知らないし、知りえもしない。
自分がどこからか来て、どこへ行くのか。
いずれも霧の中だ。
でも、人の生が「終わり」を孕んでいるのは確か。
だとすれば、旅にせよ、茶事にせよ、
小さな「終わり」をくり返し「からだの芯へ収める」ことで、
中途としての人生にも光が射す。』
どんなことに始めと終わりがある。
それは悲しみである。
でも、どこからか来てどこへ行くのか、知りえない私。
知りえないということの自覚も大切だと思う。
浄土の教えは、この「終わり」を体感することと
それだけではない生=中途の生であることを暗示している。