「値偶」と「物語」

私の物語は、すべて出遇いであった。

 
出遇いのない物語はないから、当たり前だけど
この場合の物語というのは、私の人生の物語であり、この対目は情報である。

そして、この出遇いは人だけではない。
言葉や出来事、そして場との出遇い。

この出遇いはより広く、より明るい世界を見せてくれた。
私がより大きくなり、いろいろなことが出来るように成長してきたわけではなく
出遇いが私をそういう広い世界に立たせてくれた。

かって、私に「値遇」という言葉を教えてくれた人がいる。
僧侶なのにこの言葉を知らなかったし、その人は年下で僧侶ではなかった。
その時と場と情景をありありと思い出すことができる。
この言葉を知ってしまった私は、
それからの出遇いそのものを意識せざるを得なくなった。

さっき広い世界と書いたけど、その世界は「愚の大地」だ。
大地が愚ではなく、その世界に立つと愚であることを自覚せざるを得なくなる。
そういう世界のこと。
でも、愚であることを知らしめたものがあることを知ると、
愚であることも値遇となる。

法然上人は「愚鈍の身になして」と言われた。
愚鈍の身になるのではなく、我が愚鈍の身と出遇うのだ。