「必ず救うの親様です」

「約仏と約生」は私にいろいろ考えさせる。

仏が私を救う」と「私が汝を救う」のちがいは何だろうか

それは表現の問題だけではない、何を主体に思っているのか
その主体が私である限り、わからないのではないかと思っていた。

でも、主語が異なるだけで、本来全て他力である。
一つとして「私がする」というようなことはない。

三心は私たちの心でもあり、阿弥陀様の心でもある。
そう至ったら、どちらでもよくなってきた。
約仏の方が大事だと思ってきたことなどが。

必ず救う親様です
という表現に「私」はない。