我とは何か?その1

問うていう。どういう意味で往生と説くのか。
答えていう。
この世界で「仮名人」が五念門を修める場合、前後は因果相続する。
この世界の「仮名人」と浄土の「仮名人」とは、まったく同じであるということも、まったく異なっているということもできない。
往生する前の心と往生した後の心との関係もまた同じである。
なぜかといえば、もしまったく同じであるならば、因果の別がないことになり、また、まったく異なっているなら、相続していないことになる。
天親菩薩が往生ということを説かれているのは、この不一不異の道理に立つものである。
                             行文類(論註)より
これを清沢師は、
「因果作用の原理」と「同一性の原理」とよんでいる。
ここで、わかりにくいのが「仮名人」。
これは「人といっても五蘊が因縁によって仮に和合したもの。」と、注釈があるが、
実体のないモノというイメージだから、やっぱりわからない。
そこで、これを「魂」と置き換える。
 
この世界で「魂」が五念門を修める場合、前後は因果相続する。
この世界の「魂」と浄土の「魂」とは、まったく同じであるということも、
まったく異なっているということもできない。

となってとてもわかり易くなる。
清沢師は、こう述べている。
 
我々の心的活動の変動する状態を貫いて、同一の実体・すなわち我々自身または霊魂とよばれるしかない何ものかが、持続していなくてはならない。                   「宗教哲学骸骨」より
 
かって、叔父に、諸法無我だから、魂が浄土へ往くのはおかしいと反論したことを思い出しつつ、やはり、魂が浄土へ往くとしか言いようのないことに今気がつく。