そこに世界がある

教え子が訪ねてきた。
彼の話を聞くことが仕事だ。
わからないからいろいろ質問をしたり、こういうことかといいなおしたり。
その時やっているのは、彼の世界を理解しようとすること。
そして、彼は私との対話の中でその意味を自覚できるようになる。
 
同様に法話をしている時に感じることがある。
それは伝わらないもどかしさである。
伝えようとするのは話の中身である。
でも、それを話の仕方で伝えようとすると、あれが足りなかった、もっとこうすればよかったと後悔が生じる。
 
教え子との対話と法話のことで感じたのは、「伝えたいこと」があるのではない
ということだ。
「伝えたいこと」というような主観的なことではなく、そこには「確かな世界」があるということだ。
その「確かな世界」を一方は拙い言葉で表現しようとし、もう一方はよりうまく表現しようとしているだけ。
 
大事なことは、そこには「確かな世界」があるのかどうかということなのだ。
 
昨日の「三角形の心が一直線上に並ぶ発見」も同様である。
そこにあった世界が現われただけなのだ。
今日、そのアプレットを動かしていて、
「どうして、内心と九点円の接点G1は一人ぼっちなのだろう」と感じてしまった。
すると、それが緑の線の延長上にあることに気がつく。
実際に引いてみると間違いなく一直線上にある。
九点円の中心・内心・傍接円と九点円の接点と三角形の頂点とを結んだ線の交点、傍接円と内接円との接点
みんなつながっている。
 
そこにある確実な世界が見えてくれば、表現などそう問題にはならない。
問題は、そこにある確実な世界に目を向けることなのだ。
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