月が私を見ている

月を真実=仏に譬える時、
私は、指している人、それを見ている私の二つの立場しか考えない。
でも、本当は、真実=仏=月が私を見ているのだ。
 
月は、
「私に気がついてくれ」と願っている。
愚かな者たちに何とか気がついてほしい。
しかし、愚かな人たちは私を見ようともしない。
その人たちに何とか気づいてほしい。
 
ところが気づかない。
見ようとしない。
それでも、月はあくまでも我々を照らしている。
 
さて、ここからは気づかず見ようとしない私の話。
なぜ救わねばならないのか、どういう光をあてているのか、どうしたら気がつくのか、なぜ見ようとしないのか。
それを考えているのは私である。
答は簡単である。
「私は愚かである」から。
 
月は、
「そんなことはとうの昔にわかっている。だから、我が名号を用意した。あとは任せよ。」
と言われる。
私は念仏するしかない。
 
他力とは無我ではない。
私を無くしてはいけない。
私と思うものを大切にしたい。
他力とはその私を見つめるもの。