慧海師の「断事観三昧」

河口慧海師が、その困難な旅の中で、生死を分けるような判断を下さねばならない時、
「断事観三昧」という禅によって判断をするという場面がチベット旅行記の中に出てくる。
 
断事観三昧ということは、
およそ事柄が道理で極められる事はその道理によりて善悪の判断を定めると言うことはむつかしくない。
ところが、理論上において少しもきめられぬ事で将来に対してはどういう事が起って来るか、未定の問題については何か一つきめて置かなければならぬ事がある。
それは、私は仏陀坐禅を示された法則に従ってまず無我の観に入るのであります。
その無我の観中発見された観念のある点に傾くのをもって、執るべき方法をいずれにか決定するのでござります。」
 
河口慧海師はネパールからチベットへと峠を越えるときに、どちらの道を行ったらいいのか迷ってしまう。
その時に、行ったのがこの「断事観三昧」。
師は、道理で判断できなくてどうしても決めなければならない時には、この方法で決断をしていたらしい。
この瞑想は師の工夫によるものらしいが、とても合理的だと感じる。
 
ヒマラヤの山中で禅をするということがまずすごいことなのだが、時によっては、身体の痛みで禅定に入れない時もあったらしい。
「すなわちその方法によって向う所を決しようと思ってそこに坐り込んで 坐禅 ( ざぜん ) を組んで我を忘れて居ったのですが、その時はどの位多くの時間を費やしたかも自分ながら分らなかったのでござります。」
 
と、かなりの時間を使っている。
瞑想の中で、様々な道理がだんだんと一つの方向へ向かう、
つまり智慧を最大限に発揮することではなかったかと思われる。
我が無くなるから智慧が出てきて、自然と一つの方向が決まる。