エリーと惜別の歌

昨日は喫茶店法話会があった。
感想で「我」の話になった。
 
仏法では、我執や無我をいう。
しかし、この頃感じるのは、「拡大する我」と「縮小する我」の二つの方向があるのではないかということ。
「縮小する我」というのは、
大きな組織の中で歯車のようにアトム化されている「我」を自覚する悲しさをいう。
 
清沢満之の「主伴互具」(君主と臣下の相互性)をとりあげ、
誰にも代れない我があることと、そこに現れる仏国土を清浄にするということを話した。
その我は、「無限」とつながっていることでもって、互いが関連しあっている。
それにしても、この私となって落在している我の意味は何であろうか。
 
 
さて、さっき「マッサン」を見ていた。
エリーが、なぜエマの恋に反対するのか。
いろいろ予想していた。
 
外を見るとみぞれが降っている。
それを見ていて口から出てきた歌が「惜別の歌」
 
この歌とエリーのことと結びついていった。
このサイトの作者の話をぜひ聞いてほしい。
 
以前、和讃が「演歌」として現代にもちゃんと生きていることを話した。
この歌も75調の現代の和讃である。