「自尊感情」「自己肯定感」

論文「子どものケアと自治と教育」には本文だけでなく、注が6ページもある。
この注がとても面白い。
それぞれの論のよって立つ文献が、その要約と一緒に書かれている。
著者がその本をどう読んだのかということがわかる。
 
その中に、「自尊感情」「自己肯定感」という言葉がある。
高垣忠一郎氏の定義をあげながら、文科省の学力調査・学習状況の調査のそれとは
明確に異なっていることを示している。
 
現在のケアは、もろさを抱え、傷つきやすく、ケアのニーズを持っている他者に応答するものではなく、
落ち込んだ「自尊感情」「自己肯定感」を単に慰めるだけの「ケア・サービス」になっている。
そこには自分の精神状態は自分で管理・統御しようという意図がある。
もちろん、病院にかかることを含めて。
 
一方、浄土真宗では、凡夫の自覚はある意味で、自己否定である。
しかし、その自覚は最も自己の存在を肯定したものとなっている。
でも、私は、いわゆる「自己肯定感」との違いを、明確に述べることができなかった。
 
高垣氏の定義は、この違いを明確に示しているように思う。
 
『「自分が自分であってはダメなんだ」という「その自己否定感は部分否定ではなく、まるごとの否定である」。
これに対して「自分が自分であって大丈夫」という「その自己肯定感は、自分が美しいから、有能だから自分を肯定するという感覚ではない。
ダメなところ、弱いところを含めて、自分の存在まるごとを肯定する感覚なのである。」』
 
 凡夫だけどかけがえのない私  ( ぼくなんか居なくても変わらない)
 
「自分が自分であってはダメなんだ」と思い、さらに自己変革のために自分を追い込む。
自己責任という枷をはめながら。
高垣氏の定義はそうではない。
 
私たちが、混乱するのは、「自尊感情」「自己肯定感」が別々の文脈から全く異なる意味を示していることではないだろうか。