与之助さんの処世
阿弥陀様は一声の念仏もあてにせずに助けておくれる。お念仏はご飯食べる時でも、道歩くときでも、せんちでも、どんな忙しい時でも称えられるように出来ておっておくれるで、一生懸命相続しなければならん。子に礼をせよという親があるものか、念仏を離れると心が苦しいで称えよ称えよと仰せられるのです。善知識様の御蔭でお念仏様、細々ながら称えさしてもらっておって、お念仏様を称えねば助けてもらえぬとも、こんなおぞい心じゃで、助けておくれぬとも思いませぬ。そう思わぬのが邪見でないか知らん。人様が称えてくださらぬに、ちいとばか称えて、おれは称えると思うが邪見と驕慢で、地獄へ引きずり込まれるではないかと心を苦しみます。そして、どんな心で称えても、親様が捨てておくれぬ思いながら、ローソク一丁称えさしてもらうが大儀で、早うしまえりゃよいがしまえりゃよいがというような心であります。仏法を聞かせてもらうには、此の身体をきつうせねばいかん。心臓をきつうせねばならん。
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ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
予定説と真宗のお救いには、明確な違いがある。
救われているかどうかはわからないのが予定説。
我が弥陀は必ず救いたもう。
しかし、自身は救いがたい煩悩熾盛 の凡夫。
この違いこそが、他力の念仏である。
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あれから、葉を出し花を咲かせた。紅葉も同じだ。
いのちのたくましさ。