「正信偈」と「和讃」

 もっと前からわかっていていたと思うのだが、

正信偈をあげていてやっと気がついた。
はっきり意識できたというべきか。
 
和讃と正信偈の共通点。
四句一首ということだ。
 
 極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
 
 煩悩にまなこさへられて
  摂取の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて
  つねにわが身をてらすなり
 
この和讃は、正信偈の後の二句を表している。
この部分は、正信偈で最も好きなところである。
 
極重悪人は私のことである。
私の煩悩がさえぎって、
浄土の光は見ることができないけれど、常に私を照らしている。
 
さて、浄土から娑婆に戻って。
そうなると、正信偈高僧和讃ということになるが
正信偈と直接つながる和讃はこれ以外に見つからなかった。
ということは、高僧和讃を作られるときに
正信偈をそのまま和讃に訳したのではないということか・・・
 
もっと読み込まなければ。