「わかる」ことの追求

この頃とても忙しいと感じる。
やらねばならないことが、能力の限界を超えるようになってきたのだ。
ずいぶん削ってきたつもりが、またいろいろと引き受けているうちに増えてきてしまった。
 
もちろんやりたいことを最優先させるから、引き受けた仕事はどんどんたまっていって、
今度はその仕事が脅迫をしだす。
 
弟と久しぶりに話した。
退職して、時間があるから大量の本を読んでいるという。
小説から宇宙まで幅広い。
宇宙を、その一部である私たちがどうして認識できるのかという話になった。
生命、脳、宇宙のつながりである。
そいういう話をしていて、気がついたことがある。
 
それは、私が、「わかる」とは何かということを追求してきたということだ。
脳が宇宙のことを知ろうとするのはなぜだろう。
脳は宇宙のことを知ることができるのか。
知るとはどういうことなのだろうか。
それはわかるということだ。
 
脳が宇宙のことをわかるのはなぜだろう。
はたして、脳は宇宙のことがわかるのか。
わかるということは、脳だけの作用ではないような気がする。
 
脳と言えば、養老孟司氏。
彼の譬えの中に、 「しくみとはたらき」の譬えがある。
脳と心←→「しくみ(構造)」と「はたらき(機能)」←→車の構造と車の機能
「脳と心の関係」の問題は「構造と機能の問題に帰着する」
そして「心」は「脳という構造」の「機能」である
「構造と機能とは、われわれの『脳において』分離する(が)、『対象において』分離するのではない」
 
とても魅力的な譬えである。
この譬えを拡大すると、「ラジオの譬え」になる。
それは次回に、