「生ましめんかな」

 詩人栗原 貞子さんの生ましめんかな」という詩がある。
 
 この詩は、
原子爆弾が投下された夜、地下壕に避難していた被爆者の1人が突然産気づき、赤子を取り出す為に同じ地下壕内に避難していた1人の産婆が、自らの怪我を省みずに無事赤子を取り上げるが、それと引き換えに命を落としたという内容である。
 
 法話で「名声超十方」の「名」のはたらきのたとえとして出される。
「我が名を呼べ」と願い「名がほめたたえられること」を願った仏は、
まさに名号となった仏であった。
そしてこの仏の名前には大きなはたらきがある。
 
「私が産婆です。私が生ませましょう」という声は「南無阿弥陀仏」と同じ声である。
産婆ですという名のり、お母さんがここにいるよという名のり、私が医者ですと言う名のり
全て名前自体がはたらきを持つ。
 
この詩のモデルとなった実際の出来事がある。
その出来事は、お母さんと赤ちゃんが亡くなり、産婆さんが生き残る。
しかし、栗原さんは逆にした。
それは希望だからである。私たちの願いだからである。
赤ん坊と言うのは子どもと言うのは私たちの希望である。
希望が先に死んでは希望にはならない。