親鸞聖人御消息を読んでいる。
霊山勝海師の現代語訳で、そうだったと気づかされた所にあたった。
疑いのないのを真実信心というのです。
この真実信心が煩悩ずくめの凡夫の心に起こるというのは、
釈迦・弥陀二尊が並みならないお手まわしをしてくださった御恩とお考えください。」
これを読んだとき、そうだったと気づかされた。
起こるはずがない私である。
その時、歎異抄に
「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり。」
とあることが浮かんできた。
念仏をしようなどと到底自分で思えない私であるということと同時に。
信心も念仏も、私の心に起こるはずがない。
それを起こしてくださるという誓願は、
様々な縁起としてはたらいていたのだということを感じる。
「信心が決定するというのは、如来にいだき取られる瞬間であります。」