日本の近代化は外国文明の導入であった。
明治維新と敗戦後は同じような導入構造を持つ。
しかし、それは日本列島の古代から行われてきたことだ。
古代の列島へ渡来してきた人々、大陸の巨大帝国に留学生をおくった時代・・・
外国からの文物の導入とそれに対しての独自性を追求するという志向は
粟片州という地勢がもたらす必然のものであったと思われる。
昭和の軍官僚がいったん方針を立てると、それ以後に入る情報は
方針に都合の良いものだけを取り入れ、都合の悪いものは無視をする傾向が顕著だったという。
司馬さんは、当時政策決定に関わっていた人(官僚)と話すと、
そこに人間としての魅力も響いてくるものも無かったと答えていた。
司馬さんはそういう日本人はいつから出てきたのかと問うことが、
歴史小説を書く動機だったと語っておられた。(そうでない日本人を探した)
方針を立てると柔軟にならないということは
現代の化学の先端の医学でも行われている。
いったん仮説(方針)を決めると、それに合うようにデータを選んでくることが行われている。
製薬会社の意に添うように、改ざんされるのである。
そして、このことは科学の世界だけではなく、教育でも行われている。
昭和の軍官僚の思考と同じことが現在日本で行われている。
科学的な精神とは、自然に対して仮説を立てて向き合い、
その仮説をもって働きかけ、その結果現われてくるデータに謙虚に耳を傾けることだ。
でも、そのデータを改ざんしたり、都合よく変えると自然が見えなくなる。
自分にとって都合の良い自然になる。
この自然を、子どもたちや技術や社会と置き換えると、私たちの弱さが見えてくる。
私たちにはそういう弱さがあると常に心していかなければならない。
「人間の生涯は一回きりしかなく、その間に様々な間違いも仕出かすが、
お蔭でしてはいけないということも学ぶものだ。
だが、やっとそれを学んだ頃には、もう人生は終わりなのかもしれない。」
リチャード・ファインマンの言葉である。
この勇気が柔軟心をもたらすのだろう。