「自由変更」が生みだす「変項」

昨日、若い方と話をしていて、初めて聞いた言葉がある。
それは、「自由変更」というフッサールの言葉。
様々な「個別のもの」から「普遍的なもの」を導きだす思考の方法のことである(らしい)。
 
この目の前にあるコップを例にとる。
このコップには様々な性質がある。
その性質の一つ一つを自由に変更できる自由が私たちには備わっている。
例えば、大きさを変えてみる。どこまで大きくすればコップではなくなるか?
形を少しずつ変えてみる。どこまで変わればコップではなくなるか?
色を変えてみる。どんな色だったらコップではなくなるか?
 
そうすると、自由変更の進行に伴って、無数の変項が生まれてくる。
やがて、どの変項にも共通な或る不変項が際立ってくる。
それがそのモノの本質であるという。
 
コップでいうと、手に取って液体を飲むことができるものが、コップの本質であり、
コップなるものを識別するために無くてはならないものとなる。
 
こういう新しい言葉を聞くと、いろいろと結びつけ意味づけたくなってくる。
この自由に変項を加えることができるのは人間の想像力の働きであると思うが、
それは、欲望を充足する自由でもあり、自然や人々を支配するための自由ともなりうる。
フッサールはそうではなく、
そういうことをなす己自身の固有性を明らかにするための自由を求めたという。
 
《個的なモノ》と《普遍的なモノ》の相互変換には興味がある。
でも、その個的なモノはむしろ縁起したものととらえた方がわかりやすい。
《一如》はイデアの世界ではない。
《一如》には差別、区別が無い。
《一如》は縁起せしむるエネルギーの元である。
 
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