弁円回心の歌

回心は、仏教では「かいしん」と読まないで「えしん」と読みます。
弁円さんの歌に
 
「山も山 道も昔にかわらねど かわりはてたる 我がこころかな」
 
という回心の歌があります。
 
この歌は、親鸞さんを襲おうとした心をひるがえしたことを歌っていると思っていました。
今回の関東の旅でわかったことは、そのような一時の改心を歌ったのではないということです。
 
大覚寺には、百日の説法をした所という平たい石がありました。
弁円さんは百日間もの間、親鸞さんの話を聞いたのです。
一日ではありません。
これは、親鸞さんご自身が法然上人の話を百日間聞いたことを連想させますが、
何よりも弁円さんが求められたのは、念仏の中身だったのです。
 
そして、弁円さんはその後の生活の中で変わっていったご自身の心を歌われたのでしょう。
そのこころの変化はどのようなモノだったのでしょう。
歌からはわかりません。
でも、それは親鸞さんのお手紙から想像できます。
 
人生の矛盾、人間の心の複雑さを聞き分ける智慧
降りかかってくる運命にも順い、どのような苦難にも耐えてゆく心。
そして、自分の人生に合掌して終わっていけるような境地。
浄土を願生するものとしての生き方として、如来から恵まれた念仏を称えさせていただく行。
 
そういう浄土からこの穢土を見つめる生活を振り返って、「変わり果てた」と歌われたのでしょう。
そして、弁円さんは72歳の見事な往生を遂げられたのです。
 
いつか死ぬのなら、どうして人はこの世の苦しみを経験しなければならないのでしょう。
生きている意味は死の意味と同じことです。
 
「喜びに悲しみに念仏したまえば 幼き耳もそをききわけぬ」 中川幹子