なぜご苦労をされ自ら求めて行かれた関東を後にされたのでしょうか。
今井雅晴先生(筑波大学名誉教授)の本を読むと、当時の平均年齢は40歳前後。
御開山は還暦を過ぎて先が短いと思われて望郷の念が高まったのであって、
その後、まさか90歳まで生きて京都で30年も過ごすとは思われなかった
と書いてありました。
もう一つ、以前から疑問を持っていたことに、唯信鈔の最後に
「ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりな
きゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしと
りかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけり
をなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚か
なるものをこころえやすからんとてしるせるなり。」
(「ゐなかのひとびと」は、経典などの文章を正しく汲み取れず、とても愚かなので、わかりやすく理解させようと考えて、同じ内容を何度も書きました。)
以前から、これはいったい誰に出した手紙なのだろうと疑問に思っていました。
「田舎の人々=関東の同行」とすると、文字の心を知らないと貶していることになり、
宛先に対して失礼と思えます。
そもそも関東の門徒の仕送りのおかげで生活をしている御開山が
軽蔑の意味を込めて「ゐなかのひとびと」などとは言うはずがありません。
今回の旅でわかったことは、関東の門徒二十四輩はほとんどが武士であったのです。
出会った今井先生の本には、
「そもそも関東の人々は教養が低く愚かだと短絡的に連想すべきではない」
と書かれています。
さて最後の訪問地は、
との間にある板敷峠を通って行く、山伏弁円で有名な板敷山大覚寺。
御開山はこの道を通って布教をされたのでしょう。
ご多忙なご住職を引きとめてお話をうかがいました。
まず御開山の布教のご苦労です。
稲田から数キロメートル。前日に訪問地まで行き、夜法話をし、
宿泊して次の日に帰るわけですから、毎日歩いているわけです。
待ち伏せるのもなるほどです。
お話の後、弁円さんの像や親鸞聖人の50歳(だったかな)の像などを拝見しました。
弁円さんが御開山を見た瞬間にすでに弓矢を捨て弟子になったということは、
弁円さんのそれまでの葛藤も相当なものであったと想像ができます。
弁円さんは伝説の人ではないかと思われるかもしれませんが、
御開山のお手紙の中に、往生された明法房のこととして出てきます。
見事な往生であったことが伺われます。
写真は庭にあったのは、御開山が弁円さんに100ヵ日の説法をした時に座られた石。
弁円さんの歌。(関東には御開山の歌も沢山ありました)
その後、昼食は弁当。一路郡上へ。
途中に寄るサービスエリアでは、みなさんお土産をたくさん買われていました。
雨の中の出発でしたが、向こうへ行ってからは傘は必要なし。
バスの中に置いてホテルへ入ったら、
翌日ちゃんと乾かしてたたんでそれぞれの座席に置いてありました。
ガイドさんありがとうございました。
また、夜これからの郡上組の課題をTSさんやTUさんからお聞きすることができました。
○法話で「~と~から聞いた」とか、「~がこう言っている」という話ではなく、
自身の体験として語ること。
○声明の音程を合わせること。その取り組みを。
○現在起きている世界の出来事を仏法ではどう見るのか。
(これは重要な問題です)
考えなければならない課題として深く受け止めたいと感じました。
お酒を飲みながらこういった話ができるもの旅ならではのことです。
そして、何よりもこの旅を通して多くの方と知り合いになったことも有り難いご縁です。