愚か者になれ

昨夜、息子の友人と息子と3人で仏法について議論した。
身内の葬儀は、自分自身の死というものを意識させるものらしい。
 
彼が言ったのは、
「生まれることが偶然で、死が必然だとしたら、生きるということはどういう意味があるのか」
という問いだった。
 
その問いには、
自身の罪を感じた時には自分で罰を与えることや、死後どうなるのかという不安が含まれていた。
また、良いことをしていると思っても、別の立場から見ると良くないことがあったりする。
私たちはどう行動したらいいのか、誰が良いと言ってくれるのか。
彼は軍人として自国のために正義の戦いだとしても、相手側から言えば逆だという例を上げていた。
 
私を仲間に入れてくれたのは、僧侶の意見を聞きたいということだったが、
私にはそれを明確に指し示すような力量はもとよりない。
むしろ、そういう不安を感じる感性に感嘆し、そこから学ぼうとするより他に無い。
 
叔父の著書に次のように書かれてあった。
 
「仏の前では、自分のねうちなどゼロに等しい。自分にねうちをつけている間は、
佛の光は見えてきませんよ
 
「愚か者になれ」ということは、もともと愚か者であることを知ることだ。
私にとって、このことが一番難しいことである。
もともと愚かであるからこそ、愚かであることを知ることが難しいのだ。
 
気がついたら日が変わっていた。