岐生研の常任委員会の学習で、「生活指導」6・7月号高橋論文
P.46の『子どもの「生きづらさ」の再考』の中の、古市憲寿氏の
「ミクロな視点で考えると、いくら世代間格差や世代内格差が深刻で
あっても、それは必ずしも『不幸な』社会を意味しない。・・・
いっそ日本が今以上の超格差社会、または格差が固定化された
階級社会になってしまえば、
幸せな若者はもっと増えてしまうかもしれない。」
という考え方を知りびっくりした。
高橋論文の趣旨とは外れるかもしれないがまとめてみる。
(1)なぜ若者は幸福だと思ってしまうのか?
「若年層の多くは非正規雇用者として不安定な生活を余儀なくされている。
大卒の内定率も低く、就職浪人をする学生も多い。
高齢化の進む日本において、現役世代に対する負担が重くなっていくなか、
なぜ日本の若者はこんな不遇な状況で立ち上がらないのか。
古市憲寿は、「答えは簡単」だという。
〈なぜなら、日本の若者は幸せだからです〉。」
(2)では、なぜ幸せなのか?
「この現象を説明するのが、社会学者の大沢真幸氏の説です。
大沢氏によると、人は『将来はより幸せになれるだろう』と考えたとき、
現在の生活に満足できないと感じる。
一方で自分はこれ以上幸せになるとは思えないとき、今の生活に満足する。
将来に希望を持てないからこそ、今に幸せを感じるという現象が起きている」
常任委員会では、この現象はまずいという意見が多かったが、
帰ってから興味が出て、ネットで調べてみると、
古市氏はこの現象を否定していない。
それを紹介
と
団塊世代のとらえ方とは全く異なっている。
若者のこのような感じ方を否定的にとらえていない。
私は現在の状況を肯定はできないが、このとらえ方は新鮮。
「たとえば最低時給が300円くらいになってしまったとしても、
『健康で文化的な最低限度の生活』を保障するために、
WiiやPSPを支給しておけば暴動も起こらないだろう」 と、
経済的な問題を切り離した形での承認の問題の処理の
可能性を示唆する。
と、高橋論文は、 古市著「絶望の国の幸福な若者たち」 を取り上げている。
この題が不思議な題である。
今の日本の状況を的確に示しているとも思える。
高橋論文は、
「他者承認の要求を消費(モノだけでなく、人や情報の消費も含む)
によって満たし、不安・不満を解消していくことが可能かもしれない
とする指摘は重要だ。
なぜなら、そのような流れがすでに主流となっているからだ。
そうだとすると、重要なのは、この身近な関係の志向による
自己の存在承認の問題を公共的な世界へとどのようにつないでいくのか、
ということの追求であろう。・・・」
と課題を提示している。
これが、私たちが追求してきた実践の大きなテーマだった。