学習・・・学而時習之

『子曰、学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。』
子曰く、学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや。朋友あり遠方より来る、また楽しからずや。
 
孔子さまは「学ぶ」ことと「習う」ことを別のことと考えている。
昔、これを「学んで復習する」と習った。
合わせて学習なのだが、最近これは身につけることではないかと思うようになった。
 
「学んで練習する」である。
もっと言えば実際に使ってみる(応用する)ということである。
そして習慣になる。
 
ある理論や考え方を学んだら、それを使ってみないと身につかない。
身についてこそ、学びが意味あるものになる。
 
これは、スポーツや芸術ではよくわかると思う。
でも、「学び」においても同じなのだ。
 
仏教では修行という。
修すると行ずるである。
 
親鸞さんは獲得と言われた。
「獲る」と「得る」である。
因位の時と果位の時を分けている言葉だが、
「心に獲る」と「身に得る」と考えても良い。
 
学べば、行動が変わる。
行動が変われば、生活が変わる。
生活が変われば世界が変わる。
 
それは、世界を理解する(=学ぶ)ことも含まれる。
縁起の思想は空即是色だから、理解が世界を生み出すこともある。
 
そうなると、学びと行動とは同じである。
 
そして、それは大きな喜びと、朋友を伴う。
むしろ、行動と学びが同時に行われなくてはならないということを示す。
毎日の行動が学びなのだ。
ガンジーやキングの「非暴力・不服従運動」は行動であると同時に、学習であったのだ。
 
私は、「念仏が身につく」とはそういうことではないかと思う。