辺地の往生

 
引き続き《香樹院語録》より、心に残ったところの抜き書き。
 
 綾五郎、命終に臨んで尋ねて曰く。
「私、生涯御法を聞き、此頃は日夜に六万遍の念仏を申して日課にいたし、本願を心にかけ居り候えども、信心なくば、空しく三悪道へ帰ると仰せらるるを思えば、誠に歎かわしく候、」と。
 
 予、是れに答えて云う。「念仏を多く申して仏に回向するさえ、仏しろしめして辺地の往生を遂げしめ給う。まして念仏申し本願に心をかけ、そのうえ信の得られぬ事を悲んで、加被をまつ。是れ辺地の往生疑いなし」と。
 
 また問うて云うよう。「何ぞ本願を疑うもの、辺地に往生するや。信を得ぬは、疑いと承わり居り候。」
 
 答。「是れ如来の御誓なり。『浄土和讃』の初めに、《弥陀の名号となえつつ、信心まことに得る人は、憶念の心常にして、仏恩報ずる思いあり》とのたまう。是れ報土往生の人なり。
次に《誓願不思議をうたがいて、御名を称する往生は、宮殿のうちに五百歳、むなしくすぐとぞ説き給う》とあり。是れ化土往生の人なり。
なにも悲まずに、喜びて念仏すべし。予も老年ゆえ、追付浄土にて御目にかかる也。
化土は五百歳永きようなれども、実に纔(わずか)の間なり」
と申しければ、
 
「さてはかかる機なれども、辺地の往生を遂げしめて、終には弥陀の真実報土に生れさせ給う御慈悲なれば、たとい千年万年でも如来の御計いなり」と、
たちどころに弘願に入り、めでたく往生いたされき。
 
 右、日々六万遍の称名は、臨終の両三日前より初めて申せしなり。かような人は、外には一人も見ず。是れを思うに、信は宿善開発にあらざれば、得ること能はずと見えたり。本願を心にかけ念仏せん人、辺地の往生を遂げしめ給う御慈悲なれば、身心を投げ込んで聞けば、信は得ずとも念仏申す御徳にて、悪道に堕ちぬことなれば、命限り疑いのはるるまで求めて、聞きとげずばおくまいと、勇み励むで聞き求むべし。このたび本願に値い、生涯法に身を入れても、少しも損のなきは聞法の利益なり。
 
 
方便仮土は弥陀の大慈悲であったと受け止めることができたのも、仏の方便力である。