「仕舞」としての呆け

ゼミの会で眠れなかったから、次の日は薬が無くても眠れるだろうと思ったら、間違いだった。
一昨日の夜は、目が覚めたら午前3時。
そのまま、布団の中でいろいろ思いながら朝まで過ごした。
そこで、昨日はちゃんと薬を飲んで寝たら、9時間も寝てしまった。
今日は比較的調子が良い。
 
「仕舞」としての呆け 石橋典子著 を読んだ。
 
このタイトルは「そろそろ身仕舞せにゃ」という隠岐のお年寄りの言葉からきている。
呆けを能の仕舞ととらえ、人生仕上げの晴れ舞台で悠々と舞う姿なのだと。
 
認知症による精神症状や行動障がいの多くは、認知症本来の症状ではない。
本人の不安や家族・地域社会との軋轢による不適応症状である。
本人の不安とは、認知症になってしまった自分を受け入れることができないことからおこる。
そして、それを受けとめられない周りとの軋轢によってますます不適応な症状がおこる。
 
著者は、認知高齢者のデイケア施設のチーフ・スッタフとして、生活指導をしている。
その体験の中で、認知症患者が人として扱われない様な「治療」を明確に否定している。
その方法が面白い。つまり、治療ではなく生活指導で改善できるのである。
 
「人との関わりの仕事に必要なこと」として、
(1)内に潜んでいるものを見抜く確かな目、(2)感じる心、(3)専門的な技の積み重ね
を挙げていた。
 
また、認知症高齢者に書くことを勧めたり、日常的にサイコドラマをして、本人の不安を取り除き、そして生きがいを見出す工夫がなされている。
認知症による不自由さを支える補助具」という考え方が気に入った。
それは、・血のつながり・仲間・自己実現・豊かさ根本的なもの自然・恋心・統合する補助具などである。
 
私たちは「認知症恐怖症」にかかっている。
まずこれを治療すること。それは、認知症について知ること、自分の終末について自覚すること、
認知症は少し不自由なだけで、たいしてつらいことではないことを知ることから始まる。